国際人願望と自意識のあいだ
1週間ほど出張で海外に来ている。
「出張で海外」とは、なんと甘美な響きだろうか。
私は10代の頃から、なぜか国際的な人間になりたくて仕方がなかった。
その理由は今となってはよく分からないし、大した理由もなかったんだろうと思う(多分かっこいいとか英語が好きだったとか、そんなありがちな感じ)。
将来は英語をペラペラしゃべって、スーツケースを引っ張って世界中を飛び回る、国際派のキャリアウーマンになるんだ!って思ってた。
で、ゆくゆくは長身の白人マイケル(仮名)*1と出会い、国際結婚をするのだと思っていた(私だけじゃなく、友達もなぜかそう思っていた)。
で、その結果がこれである。
幸い、回り道はあったものの、そんなに遠くはない着地点に立ってはいると思う(マイケルを除く)。
しかし、私は「国際人」として振舞うことがむしろつらい、ということに最近気がついてしまった。
海外で仕事をするためには、まず自分の意見を持ち、はっきりと表明すること、自分をオープンにすること、多様性を許容すること、などが求められる。もちろん語学力も。
多様性を許容するという点についてはクリアしていると思うが、問題はそれ以外だ。
堂々と言うことではないが、私は人見知りかつ自意識過剰である。
そういう人間が自分の意見をはっきりと言ったり、自分をオープンにすることができるのは、気心知れた仲間内だけである。
30数年間にわたって私の心を外敵から守ってきたA.T.フィールドは鉄壁だ。
さらにその壁には、自分の行動を監視し、録画再生することができる高性能カメラもついている。
よく知らない人の前で何かを話そうとすると「こんなこと言ったらバカだと思われる」「英語が下手なのがバレる」「何を言っても場違いな気がする」「この人、絶対私に興味ないだろうな」と無駄に脳みそをグルグルさせ、結局、最もやってはいけない「黙ってニコニコしながら心を閉ざす」という行動を取ってしまうのである。
そんな様子を繰り返し頭の中で再生しては「また何も言えなかった...」と凹んでいると、ボスが「こういう場で何も言わないとバカだと思われるよ〜」とニコニコしながら追い討ちをかけてくる。
何か言ったらバカだと思われる気がして黙っていたら、結局バカだと思われる。
地獄かよ。
この鉄壁の守りを自ら崩さないことには、私は真の国際人*2とやらにはなれないんだと思う。
バカっぽくても何でも意見を言って、自分のスタンスを示さなければならない。
語学力は多分それほど問題ではない。何か言えば、どんなに拙くても人は意外と聞いてくれるらしい。
自分が思うほど、人は自分のことを気にしてはいない。外国では特にそうだ。
そんなことは分かっている。分かっているけどできないのだ。
こんなことなら、日本国内に留まって、自意識にまみれながらなんとな〜くぬる〜く日々を送っていた方がよっぽど楽だ*3。
とはいえ、海外で最もストレスを与えてくるのは、海外で出会った日本人である。
もちろん海外で日本語を話せる安心感や同胞感から、日本で出会うよりも親密になったりすることもあるので、一概には言えないんだけども。
この日本人が私よりも長く当該地に居住し、さらにすでにグループが出来上がっているときが最悪だ。
持ち前の卑屈さと人見知りを炸裂させた結果、自分よりもその国の言葉を上手に話せる人の前で萎縮し*4、グループ内にうまく入り込むことができないから頼ることもできず、一人でいるよりも孤独感を感じることになるのだ。
逆に、一番早く打ち解けることができる気がするのは、その国の言葉を母国語としない人(他国からの留学生とか)である。
同じ言葉を学ぶ苦労を分かち合いながらも、最初から文化的背景が違うことを前提にして付き合うことになるので、ある種の諦めや好奇心が介在するのだと思う。
言語の運用能力が私と同じぐらいだと、さらに好ましい(ネイティブレベルだとやはり萎縮、そして萎縮である)。
彼/彼女らと話すと、まったく違う文化についての知識を得ることもできるし、母国語じゃない言葉でお互いの国の話をしてると、なんかこう、国際人になれたっぽい気もしてくる。
自分の中の「国際人」が薄っぺらすぎて泣けてくる。
きっと国際人とやらは、こんなことを考えないんだ。
奴らは「え?どこででも誰に対しても普通にコミュニケーション取れますけど?」ってあっけらかんとしているんだろう。
私はどこにいっても誰と話しても、結局どこまでも自意識が追いかけてきて、自分自身としか会話できていないのだった*5。
誰か、この自意識をなんとかする方法を教えてくれないかなあ。
とか思いつつ、やっぱり国際人になりたくて、今日も必死に足掻くのであった。