「何者」かになるって大変なことですね
「何者」という映画を観た。朝井リョウ*1の同名小説が原作だ。
今年はとにかく現実逃避のためにたくさん映画を観てきたが*2,その中でもベスト5に入るぐらい好きな映画だ。
観る前は就活をめぐる青春群像劇かと思っていたが,ツイッタ―で流れてくる感想を見ると
「ホラー映画」「ツイ廃涙目」「もう勘弁してくれ」
となかなかの阿鼻叫喚だったので,しばらく観る勇気が出なかった。
一方で
「あ,就活の話か。自分も就活つらかったな~」「いみわからん」「寝ちゃったw」
という感想もあったりする。
何となく予感はしていたが,自分は前者であった。
途中,「もうやめて,助けて,それ以上言わないで~~~!!!!」と心の中で叫び,自分という存在の痛さ,恥ずかしさに身もだえした。
これは就活という舞台を使って,「何者」になる前の若者たちの自意識を描いた作品である。
自意識とは。
じ-いしき【自意識】自分自身がどうであるか,どう思われているかについての意識
とのこと。
そんなものを真正面から描いているので,自意識過剰であるという自覚のある人ならば,大抵は私のような反応をすると思う。
自分がどうありたいか,どう見られたいかについて過剰に気にして,言動をコントロールしてるつもりが失敗してることをなんとか隠そうとして,それでいて「あいつよりマシ」って思ったり痛い人を観察してニヤニヤ笑ってる私を暴かないでー!!!!と。
登場人物たちの痛い行動に自分を重ね合わせてなんとなく居心地の悪い思いをしているだけに留まらず,クライマックスでは「ていうか観察者気取ってるオマエが一番ダセェからな!!!」ということを突きつけられる。
観察や批判は誰にでもできる。
それなのに,なんとなく賢く,他人と違う価値観を持ったような気分になれるため,お手軽に自己肯定感を得ることができる。
「阿賀氏の分析は面白いよな~」
とかおだてられると,本当に自分には世相を切る才能があるのではないかと錯覚してしまう。
一方で,一から何かを生み出す作業は,とってもつらい。それこそ天才でもない限り,自分を削り出すような作業なのだろうと思う。
一から生み出すといったら大いに語弊があるが,私は文章を書いたり人前で話すことを仕事にしようとしている。
文章を書くことが好きだと思っていたが,この書くという作業がつらくてつらくて仕方ない。
アイディアを言葉として打ち込んだ瞬間,それはとてつもなく陳腐に見える。
なんてつまらない,無様な文章なんだろう。
それでも,書かないことには人に読まれないし,業績にもならない。もちろん評価もされない。
頭の中にあるうちは,いつだって,何だって,傑作なんだよな
という「何者」の台詞を噛み締める。
それでも,どんなに無様でみっともなくても,書くことでしか前に進むことができないから,泣きながら(誇張でなく,本当に泣きながら)書き,そしてせっかく書いた文章をこき下ろされ続けるしかない。つらい。
ある日,とても無様なプレゼンを聞いた。
その分野で世界的に有名な先生の前で,若い発表者が英語でプレゼンをしていた。聞いているこっちが赤面するほどに日本人英語で,カタカナを棒読みしているようなひどさだった。
プレゼンが終わり,その有名な先生から質問があった。しかしその発表者は,その質問の英語を聞きとることすらできない様子だった。
私は「うわーww私なら今日この場でこの仕事辞めるねwww」と思った。
その後,そのプレゼンをしていた人と話す機会があった。
私は,その人に「この仕事つらくないですか?」と聞いた。てっきり「つらいよね,自分は英語もできないし,正直向いてないのかなって思う」という答えが返ってくるのだと思っていた。
そうしたらすかさず「分かります,私もつらくって~」と言いながら(そうだろうね,正直私の英語のがまだマシだわwww)と内心でつぶやこうと思っていた。
しかし,その人は「ううん,楽しいよ!」と何のてらいもなく言ってのけたのである。
私は自分がとてつもなく恥ずかしくなった。
確かに私の英語の方が多少マシかもしれない。しかし,私は世界的権威と会う機会があったとしても,下手な英語を話す自分を恥ずかしく思って,何も話せなくなるだろう。
無様でも挑戦している人*4と,それを横から見てただ嗤っている自分。
その差は歴然だった。多分,この差の積み重ねによって,数年後,数十年後にはもう取り返しがつかなくなるのだろう。
とりとめがなくなったが,この映画を観てそんなことを思った。まだまだ語りたいことがたくさんあるけど,長くなったのでこのへんで。
まずは今の自分のダサさ,みっともなさを認識したうえで,そんな自意識に打ち勝ち,10年後20年後の自分を見据えながら,人脈と見聞を広げて,素敵な仲間と切磋琢磨して,大自然からパワーをもらって,テンション高めで頑張ろうと思います!!!